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イスラームの「寛容性」とLGBT

じゃかるた新聞掲載記事

5月30日掲載のじゃかるた新聞記事の自己編集版です。関連記事として、去年アジ研ワールド・トレンドに書いた「ユドヨノの保守的宗教政策とジョコウィ政権における変化」もご笑覧いただければさいわいです。

 ニュースではいわゆる「イスラーム国」の話題が尽きないが、最大のムスリム(イスラーム教徒)人口を誇るインドネシアの社会や宗教運動は寛容である、というのが一般評であろう。インドネシアの人々もまた、「中東とは違って」というフレーズをよく使う。しかしながら、1965年の共産党員虐殺事件を思い起こせば、それほど寛容な社会であると簡単にはいえないだろう。東ジャワでは虐殺が「ジハード」として宗教的に正当化された。同地は穏健派と称されるナフダトゥル・ウラマー(NU)の本拠地である。

 もっとも、NUを宗教的に穏健派と呼ぶことは間違いではない。もう一つの国内主要組織ムハマディヤと比較すると、NUの宗教解釈の方法論は柔軟である。地域的な伝統にも寛容である。ただ、暴力の発生は宗教教義「のみ」では説明できないということである。1965年の虐殺においては、それまでに共産党と土地所有者の宗教指導者たちの間で深刻な政治的対立があったといわれている。

 最近のLGBT(レズ・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー)をめぐる議論はこの社会の不寛容さを露呈させた。1月にムハンマド・ナシール教育大臣がLGBTは「道徳を破壊するので、大学から追い出さなくてはならない」と発言、これにLGBTの団体が抗議声明を出すと、逆に激しいバッシングが起こった。同性愛は宗教を逸脱する悪行であり取り締まるべきだという考えや、グローバル化や欧米からの文化的影響による道徳の荒廃への懸念が背景にある。ツイッターでは「LGBTを拒否する #tolakLGBT」というハッシュタグがトレンドとなり、LINEはインドネシア向けのショップから同性愛的なスタンプを削除した。宗教組織を名乗る急進派の抗議で、象徴的な存在だったジョグジャカルタのトランスジェンダーのイスラーム学校も閉鎖されてしまった。

 NUは、2月末になって「LGBTの性的傾向は人間の自然なあり方に反しており、権利団体の活動は容認できない」との公式声明を出した。NUには人権擁護の活動家も少なくないが、知りうる限り抗議の声は上がらなかった(ただし個別にLGBT擁護の論陣には加わっている)。ユスフ・カラ副大統領を始め、基本的なトーンは、LGBT個人には国民としての人権はあるが、運動として集団的な権利を主張することは許さないというものだった。元軍人のリヤミザード国防大臣に至っては、LGBTの権利主張は「西洋諸国による国家主権を脅かす洗脳だ」とまで述べた。おそらくインドネシア初のゲイ活動家であるデデ・ウトモは「道徳的なパニック」が起こったと述べている。曰く、これまでもスハルトの権威主義的体制下で築かれてきた家族主義や国家を母性とする考えの崩壊に危惧を抱いていた人々が、LGBTの権利主張にある種のパニックを起こしたというのである。

 近年このように宗教的な異端や逸脱だとみなされる少数派へのハラスメントや暴力事件が増えている。これを単なる「中東からの影響による」イスラームの保守化と決めつけることはできない。2013年にPew Research Centerによる世界39カ国で行われた調査によると、インドネシアで同性愛を社会的に容認できると答えたのはわずか3%(日本は54%)、容認できないは93%で、6年前の調査から変わっていない。少なくともこの件に関しては、他の中東・アフリカ諸国と同等かそれ以上に保守的である(中東でもレバノンやトルコは、インドネシアよりは寛容であるとの結果がでている)。LGBTを社会的病理や精神疾患とみなし、これを「治療」しなくてはいけない、という考えかたも根強い。それがなぜ暴力に結びつくのか。汚職などの諸悪に無力な治安機関への不信感が一つの理由だろう。代わりに「正義」の鉄拳は手近な弱者に向かう。そう考えれば先の国防大臣の発言にも合点がいく。

 LGBTの権利団体は国際的な人権規範に訴える一方で、インドネシアの歴史のなかに多様な性のあり方を見出して、現代社会の病理や西洋からの影響という固定観念を払拭しようとしている。他方の攻撃側も、イスラームだけではなく、すべての公認宗教が同性愛を禁じていると主張する。人権思想も保守的なイスラームの道徳も、それだけでは十分な説得力を持たず、インドネシアの文脈が重要なのである。